曹洞宗と道元

曹洞宗と道元

鎌倉時代初期の禅僧の道元は曹洞宗の開祖として知られていて、一般的には道元禅師と呼ばれています。道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として弟子たちに、自ら特定の宗派名を称することを禁じていまました。そして禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していて、どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」つまり「禅」と称するようにと示したとも伝えれられています。「曹洞宗」を名乗るようになったのは、第四祖瑩山紹瑾からです。

「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持されて、政治や文化の場面で重んじられたのに対して、曹洞宗は地方武家や豪族、下級武士そして一般民衆に広まっていきました。

曹洞宗という名前の由来は、達磨大師から曹渓山慧能禅師(そうけいざんえのうぜんじ:638~713)と洞山良价:(とうざんりょうかい:807~869)の頭文字を取って曹洞宗と呼ばれたとされています。

道元

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。

一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった[1]。

四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と誤って混同されたものであると考えられるが、このような伝承が発生した原因については未だ不明である。

伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、(世の無常を感じ出家を志した)道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を(その花に群がっていた虫ごと)むしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。

見仏しま専科
絶縁を考えている方へ。悪縁から絶縁するにあたり、あくまで願い事は自分が幸せになるということを念頭に強く願い、他人の不幸のみを考えた行いはしないようにしたほうがいいでしょう。

教義

成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。

鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。

道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている

道元の主な活動

1213年(建暦3年)…
比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねていく。
1214年(建保2年)…
天台座主公円について出家して、仏法房道元と名乗る。
1215年(建保3年)…
園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。
1217年(建保5年)…
建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事します。
1223年(貞応2年)…
明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受けます。その際の問答記録が『宝慶記』です。
1228年(安貞2年)…
南宋より帰国します。その際『碧巌録』を書写していますが、大権修理菩薩が現れて手助けしたという伝承があります。
1223年(天福元年)…
京都深草に興聖寺を開きますが、この頃から比叡山からの弾圧を受けています。
1243年(寛元元年)7月…
越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転しています。
1244年(寛元2年)…
傘松に大佛寺を開きます。
1246年(寛元4年)…
大佛寺を永平寺に改めて、自らの号も希玄と改めます。
1248~1249年(宝治2~3年)…
執権北条時頼、波多野義重たちの招請によって教化のため鎌倉に下向します。鎌倉での教化期間は半年間でしたが、関東における純粋禅興隆のはしりとなりました。
1253年(建長5年)…
病によって永平寺の貫首を、弟子孤雲懐奘に譲ります。俗弟子覚念の京都高辻西洞院の屋敷で亡くなります。享年54。(満53歳没)

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)

道元の著書「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)は、20世紀大陸哲学のうえで最も重要な哲学者の一人ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーや20世紀の日本の哲学者和辻 哲郎といった西洋哲学の研究者たちからも注目を集めました。道元は、『座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある』という禅を伝えました。

「正法眼蔵」は仏教思想書になっていて、正法眼蔵という言葉は、肝心要の事柄をさしている言葉です。

1231年~1253年で亡くなるまで、道元が生涯をかけて著した87巻という内訳は75巻+12巻に及ぶ大著になっていますが、日本曹洞禅思想の神髄が説かれています。道元は、中国曹洞宗の天堂如浄(中国宋の曹洞宗の僧)の法を継ぎつつ、さらに道元独自の思想深化発展がなされています。

道元はこの書を著するにあったて、真理を正しく伝えたいという考えから、日本語でしかも仮名で著述しています。鎌倉時代のその当時は仏教者の主著は、全て漢文で書かれていました。それは法然や親鸞の『教行信証』も同じですし、栄西や日蓮もすべて漢文で書いていました。道元は、古い巻の記述を書き直して新しい巻を追加して、全部で100巻にまで拡充するつもりでしたが、87巻で病に伏せてしまったため完成することは出来ませんでした。その後、拾遺として4巻が発見されたので追加されています。

曹洞宗で主に読まれる経典

『摩訶般若波羅蜜多心経』
…大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つ。
『修証義』
…(しゅしょうぎ)道元禅師の著『正法眼蔵』から重要な点を抜粋したものに編集されたものです。
『伝光録』
…(でんこうろく)1300年1月から瑩山禅師が修行僧に説いた説法を側近の僧がまとめたものです。
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